パークシティ駐車場棟の秘話!?
先日、タウンニュース高津区版で「高津物語」を連載している鈴木穆(あつし)さんのお話を聞く機会がありました。
その席で「パークシティの駐車場棟は、戦時中の日本工学(今のニコン)の工場で、レンズを磨くための砂などを入れておく建物だった」という話を聞いてきました。
日本光学は日本軍との関係が深く、ライフルの照準器や望遠鏡など、軍事用の光学機器(光学兵器)を数多く生産。中でも、世界最大の戦艦「大和」と「武蔵」に搭載された光学兵器「15メートル測距儀(そくきょぎ)」が有名だそうです。その頃、二子玉川や溝の口などに、日本光学の工場が多数あり、パークの駐車場棟はその建物を流用したもの、という話でした。
「だからあの建物は天井も低いし、中が暗くて狭いでしょ。各階に鉄扉の扉があって、そこから出し入れしてたそうだよ」と鈴木さんはおっしゃってました。
もともと鈴木さんは代々高津区の住民で、27歳で当時の川崎高津郵便局(現在の川崎溝ノ口郵便局)を開局。以後65歳まで局長を続けたそうです。そして高津青年会議の理事長をしていた当時、高津区民祭の前身である「高津区納涼祭」をスタートさせたそうです。
高津物語はすでに1000回を超える長寿連載で、ウェブサイトからも記事を見ることができます。タウンニュース高津区版「高津物語」
また書籍も発行されていて、北野書店から上中下の3冊がでています。北野書店「高津物語」
建物が本当にそうだったのかの事実確認はとっていませんが、なるほどなーと説得力のある内容でした。ほかにも鈴木さんのお話は非常に多岐にわたっていて、たいへん興味深いものでした。あらためて、この溝の口周辺の歴史などを調べてみるのもおもしろいかも、と思いました(文・栗山)
興味深いお話を拝読しました。
以前大山街道にある岩崎酒店で年輩の顧客と店主の会話が聞こえました。顧客は戦争中、溝の口から市が尾に疎開したとのこと。溝の口には日本光学などの軍需工場があり、空襲の目標になっていたことを知りました。近辺で見かける横穴は防空壕の跡のようです。ちょっと調べてみると興味深い溝の口の歴史がわかります。
日本光学工業が移転した跡地に「溝の口製作所」「東芝玉川工場」などの電機工業が進出。区の従業者数の半数以上が製造業となる。(「たかつ」(平成26年2月号))この東芝玉川工場では医療機器を作っていました。
大山街道ぞいのエリアには、第二次世界大戦まで軍部の施設や軍事関連の工場が数多くあり、軍隊(東部第62部隊)も駐屯していました。大井町線も、元は日本光学工業(大井町⇔溝口の両工場との連絡)の社内線でした。(「歴史から見える溝口 ~伝統と発展を共存させて~」高津区文化協会会長(郷土史研究家) 鈴木穆(あつし)さん)
ところで「パークシティの駐車場棟」は、調べてみると昭和57年に竣工とわかりました。日本光学時代のものではないようです。
駐車場の話は事実であれば、興味が持てる話ですが、
戦後40年近くが過ぎ、それ以前に建てた建物を新築の
団地に残すなど、全くの常識外です。
鈴木さんの名誉のためにも、この部分はご本人に
注意を喚起すべきでした。